アラビア書道における「ビスミッラー」とは
世界アラビア書道日本代表者
東京ジャーミィのアラビア書道教師
ターリク・ファタヤーニ
- アラビア書道の美しさ
アラビア語の文字は、その美しさゆえにアルハンブラ宮殿や様々なマスジド(モスク、礼拝所)の壁面を飾っただけではなく、教会においてさえ装飾として用いられている。他の言語でも文字を美しく綴る芸術というものは存在するが、アラビア書道はアラビア文字を文字の芸術以上のものにし、絵画や彫刻に匹敵するデザインに変容させた。
かの高名な画家であるパブロ・ピカソは、アラビア書道についてこう語ったという。
『もし”アラビア書道”のような凄いものの存在を私が知っていたら、絵を描き始めることはなかっただろう。私は最上級の芸術的な熟達を目指して努力してきた。しかし、”アラビア書道”は私が存在するよりもずっと昔から、すでに極みに達していたのだ。』
ピカソがこのような言葉を残したのも不思議ではない。彼はイスラーム・ルネサンス時代の偉大なイスラーム文化遺産が残された地、スペインのアンダルシア州で生まれ育ったからである。
- イスラームとアラビア書道の関係
イスラーム以前の時代には、アラビア書道は存在しなかった。アラビア語の文字自体が非常に原始的な形態をとっていた上、当時のアラブ人の大多数には文字を書く技術がなかったからである。しかしイスラーム時代になり、イスラーム教は人々に知識の追求や学びを促した。イスラームの聖典「クルアーン」では、人間の生活における学問の重要性が様々な箇所で明言されている。
『知っている者と、知らない者が同じであろうか。(しかし)訓戒を受け入れるのは、思慮ある者だけである。』
また、預言者ムハンマドも学ぶことを奨励した。
アル=ブハーリーとムスリムが教友(預言者ムハンマドの直弟子)アブー・フライラによる伝承として伝えるところによると、預言者ムハンマドはこう言ったという。
「知識を求めて道を歩む者には、アッラーが天国への道をそれを通して容易くしてくださるだろう。」
そのため人々は学び始め、中世においてはアル=フワーリズミー、イブン・スィーナーなど、医学、天文学、数学といった様々な分野の学者が輩出された。彼らが残した知識は、現代社会においても大きな影響をもたらしている。例えば、「アルゴリズム」という言葉があるが、これは開発者であるアル=フワーリズミーの名前に由来する。当時のヨーロッパは暗黒時代と呼ばれ、人々は無知蒙昧を憂いていた。故に学問を得るためイスラーム帝国に渡ったのである。
『1001の発明』という本を紐解くと、その中には当時のイスラーム教徒の発明の様々な事例が示されている。そしてそこに示されるイスラーム文明の一つに美術があるが、これはイスラーム建築、装飾の技術、アラビア書道の発展に大きく寄与するものであった。
- 「ビスミッラー」とは?
このコラムでは、長い時間の中で発展を続けてきた「ビスミッラー・アッ=ラフマーン・アッ=ラヒーム」という一文を通して、アラビア書道の魅力について紹介したい。
「慈悲あまねく慈愛深きアッラーの御名において」といった日本語訳となるこれは、クルアーンの最初の節であり、「悔悟」の章以外の各章はこの一文で始まる。イスラーム教徒(以降、ムスリム)は食事前に「ビスミッラー・アッ=ラフマーン・アッ=ラヒーム」を略して「ビスミッラー」と唱える。全てのムスリムの著作家は、書物の冒頭に「ビスミッラー・アッ=ラフマーン・アッ=ラヒーム」の一文を添えるし、イスラーム教徒はあらゆる行為を始める前にこの一文を唱える。
このように、「ビスミッラー・アッ=ラフマーン・アッ=ラヒーム」はイスラーム教徒にとって非常に重要な意味を持つ一文であるため、多くの書道家がこれをモチーフにしてきた。私も子供の頃「ビスミッラー・アッ=ラフマーン・アッ=ラヒーム」をモチーフに絵画を描いたことがある。(写真:左)
- ビスミッラーの意味
ビスミッラーとは「アッラーの名をもって動作を始める」ということである。例えば食前に唱えるビスミッラーは「アッラーから祝福および健康をいただく」「アッラーがこの食事を与えて下さったことに感謝を捧げる」などの意味を持つ。
もちろん、仕事もビスミッラーで始める。アッラーの助けを求め、アッラーに成功を祈るためである。
「アッ=ラフマーン」と「アッ=ラヒーム」については、アッラーの属性である。双方とも「慈悲」という意味を持つ。
「アッ=ラフマーン」は、「慈悲あまねく御方」という意味を持つ。アッラーのお慈悲は広大無辺で、例え人間が大きな罪を犯しても慈悲を持って接し、人間は恩知らずであるにもかかわらず糧を与えてくださる。人間は些細な過ちは赦すかもしれないが、大きな過ちは赦すことができない。しかしアッラーは、アッラー以外の神の存在を信じない限りにおいて、慈悲あまねく全ての罪を赦してくださるのである。
「アッ=ラヒーム」は「慈愛深き御方」という意味を持つ。人間は些細な過ちは赦すかもしれないが、同じ過ちを何度も繰り返すことは赦さない。しかし、アッラーはどんな過ちを何度犯しても、悔悟すれば赦してくださる。従ってアッラーは、「アッ=ラフマーン アッ=ラヒーム」なのである。
アッラーには、「強い者」や「比類なき威力を持つ者」等の様々な属性があるが、何故ビスミッラーでは「慈悲あまねく、慈愛深き者」が用いられているのか。
私たちはアッラーに対する義務を果たさず、過ちも多く、アッラーに助けを求める権利を持ってはいないが、ビスミッラーを唱えることにより、アッラーに助けを求めている。
アッラーは「アッ=ラフマーン アッ=ラヒーム」であって、私たちがどんなに重大な過ちを犯したとしても助けてくださると信じているから、「ビスミッラー・アッ=ラフマーン・アッ=ラヒーム」と唱えるのである。
この一文を様々な形で描いた数百点の作品を集めた絵画集がある。以下では、「ビスミッラー・アッ=ラフマーン・アッ=ラヒーム」を様々な書体で描いたものをご紹介しよう。
1. クーフィー体
クーフィー体は、アラビア文字最古の書体である。元来は葦で書かれていたが、石に刻みマスジドの壁を装飾するために、筆で描けるように改変された。
2. ナスフ体
この書体はシンプルで読みやすく、最も普及している書体である。そのため書物、新聞、雑誌などに利用されることが多い。
3. スルス・リーハーニ体
稀な書体の一つであるが、美しさと豪華さが特徴である。
4. ルクア体
最も書きやすい書体であるため、手書きはこの書体で行われる。
5. 正方形クーフィー体
正確な計算を行い、すべての隙間を「ビスミッラー・アッ=ラフマーン・アッ=ラヒーム」で埋めるべく幾何学的に描かれる。
6.ディーワーニー体
スマートかつ流動性を有し、川の水が流れるようにすべての文字が繋っていることが特徴である。
7. ファーリスィー体
イランで発祥し、イランにおいて大きく発展した書体である。簡単で美しく、イランやパキスタンをはじめとする周辺国でよく利用される書体である。
8.ディーワーニージャリ体
流動性および美しさという面ではディーワーニー体に似ているが、全体的な空間が点で飾られ、流麗な美術を形成する。
以下の作品は、「ビスミッラー・アッ=ラフマーン・アッ=ラヒーム」が様々な形や書体で書かれているものである。
アラビア書道を書く際には、ただ文字を美しく書くのではなく、文字の配列についても幾何学的な配慮をしなければならない。美しいアラビア書道の絵画に辿り着くためには、実験を積み重ね、正確な計算を行うことが必要である。
上にあげた例のように、書としてのビスミッラーは以下のような考察や計算を行った結果、最終形態に至るのである。上の画像を見ると直線が平行で、文字と文字の間の距離や文字の配列が正確に計算されているのがわかるだろう。芸術を成し遂げるには、精密な作業が必要なのである。